生かされた命で、誰かの役に立ちたかった ― 震災のあと、葬儀屋を選んだ23歳の話
はじめまして、倉敷坊主です。
今日は、私が葬儀屋に勤めることになったきっかけを書きます。私の葬儀屋としての原点は、23歳の頃、阪神・淡路大震災のあとにあります。
23歳、婚礼家具のブローカーでした
当時の私は、婚礼家具のブローカーをしていました。結婚するお客様の新しい生活のために、家具をお届けする仕事です。人生の明るい始まりに立ち会う仕事でした。
阪神・淡路大震災の時、私は本来、婚礼の荷出しのために阪神高速を走っているはずでした。けれど、その仕事をお断りしていたため、私は被災することはありませんでした。今思えば、紙一重のことです。
倒壊したお客様のご自宅へ
震災のあと、婚礼家具をご購入いただいたお客様のご自宅へ伺うことになりました。そのお宅は、震災で倒壊していました。震災後の町を、車で横目に見ながら向かったことを覚えています。
お客様ご自身とは連絡が取れず、お母様から500万円を集金させていただきました。
会社は大阪市内にありました。行きは、8時に出て9時半に着きました。1時間半です。ところが帰りは、10時に出たのに、会社に戻れたのは深夜1時。実に15時間かかりました。
戻った私に、課長が言いました。
「持ち逃げせんかったやな」
確かに500万円は高額な金額であり、心配になる気持ちは分かります。ですが、あの15時間のあとに聞く言葉がこれでした。違う言葉なら、また違っていたのでしょうが……。この一言で、私は婚礼家具の仕事に興味がなくなりました。
若いご夫婦の知らせ
その後、お客様のお母様から、ご連絡をいただきました。娘さんご夫婦が、亡くなったというのです。
これから明るい家庭生活が始まろうとしていた若いご夫婦でした。婚礼家具は、その新しい生活のためにご購入いただいたものでした。
私は、たまたま運よく無事でした。走るはずだった阪神高速の仕事を断っていた。それだけのことで、生かされました。
それなのに、これから幸せになろうとしていたご夫婦は、亡くなってしまった。そのことが、自分の仕事への疑問になりました。
生かされた命であるなら、これからの仕事は、誰かの役に立てるものにしたい。葬儀屋さんなら、誰かの役に立てるのではないか。
そう思うようになりました。
電話帳を手に、一軒ずつ
仕事の合間に、転職情報誌を見て、ハローワークへも行きました。それでも足りず、電話帳に載っている葬儀屋さんへ、一軒ずつ電話をかけました。「求人は、しておりませんでしょうか」と。
その中の一軒が、家族経営で葬儀屋さんをされている、大西葬儀社(仮名)でした。電話口に出たのは、大西社長ご本人です。大西社長は、私の話をいろいろと聞いてくださいました。そのうえで、笑いながら言われました。
「お前、おもろいやっちゃな。一度うち来てみるか」
さらに、こう続けてくださいました。
「ちょうど、あした警察迎えがあるから、時間あるなら来てみたらどうや。直に仏さんみて、葬儀屋に勤めるのはそれからでもええんちゃうか。仕事したかったら、1人で飯食えるようにわしが教えたるさかい」
勢いで雇うのではなく、まず現実を見てから決めなさい、ということです。そして、それでもやるなら、一人前になるまで教えてやる、ということです。
翌朝8時、1時間前に着きました
翌日、約束は9時でした。私は1時間前の8時に行き、準備の段階から、従業員の方々に教えてもらっていました。のちに先輩になる方々です。
その30分後、社長さん(当時40代)との初顔合わせになりました。
「えらい早よきたんやな 笑」
先輩の篠原さん(当時40代)には、社長さんが前もって、「おもろい奴がくるから、一緒に警察行ったって」と伝えていたそうです。
「でも、まさか1時間前に来るとは思わんなんだわ 笑。ほんまおもろいやっちゃな」
緊張していた私が覚えているのは、頭を下げながら「宜しくお願いします」と、一言お願いしたことだけです。
物置小屋の一角の霊安室
当時の私が葬儀を体験したのは、子供の頃の祖父母の葬儀以来でした。人の死を間近で見たことは、一度もありませんでした。
篠原さんが運転する寝台車の助手席に乗せてもらい、警察に到着しました。霊安室に通されましたが、当時のことです。ドラマで見るような整った霊安室ではありません。物置小屋の一角を使い、故人さんが安置され、白いシートが無造作にかけられていました。
私は、無心でした。怖いなどの感情は起こらなかったことと、鼻をつく死臭のにおいを、今でも覚えています。
故人さんは、ご自宅で亡くなっており、死後数週間が経過していたとのことでした。警察の方の対応は、早く引き上げてくれと言わんばかりに感じられました。
私が思っていた死とは、家族に、病院などで見送られながら迎えるものでした。現実でありながら、どこか非現実的な状況に思えました。
その中で篠原さんは、何事もなかったかのように、故人さんに合掌し、寝台車から御棺を下して、納棺の準備を淡々と進めていました。慌てるでもなく、事務的でもなく、最初に手を合わせることは、忘れない。それが、プロの姿でした。
見送る人のいない火葬
諸々の手続きを終え、故人さんは火葬場へ運ばれました。見送る人は、いませんでした。
火葬炉の前で、私は考えていました。
このひとは、今までどのように生きてきたのだろう。
名前も知らない。どんな人生だったかも知らない。それでも、最後の場面に立ち会った人間として、その方の人生に思いを向けることはできました。見送る人がいないからこそ、誰かがそう思ってあげることに、意味があるのではないか。今の私なら、そう言葉にできます。
「死んでしまえば、もう誰にも迷惑はかからない」という言葉を聞くことがあります。けれど、この日私が感じたのは、その反対でした。人の死ほど、いろいろな人が関わるものはありません。亡くなった方は、自分ではもう動けないのです。だから、迎えに行く人がいて、御棺を用意する人がいて、手続きをする人がいて、火葬場へ送る人がいる。見送る人のいなかったこの方の最後にも、これほど多くの人が関わっていたのです。
「供養やと思ってもらっとき」
仕事を終えて会社に戻り、篠原さんと社長さんにお礼を述べて、帰る間際のことです。社長さんが、こう言って日当を差し出してくださいました。
「これ、今日の日当や! 気が向いたらいつでも来たらええし」
私は、お忙しい中、勉強させてもらいに来ただけですのでいただけません、とお断りしました。すると社長さんは、言われました。
「これはわしからと違うで。今日、倉敷坊主がお見送りした故人さんからやから、供養やと思ってもらっとき!」
お金は、会社からもらうものではない。今日お見送りした故人さんからいただくもの。だから、供養と思って受け取りなさい。
葬儀の仕事のお金の意味まで、その一言に詰まっていました。
人の一言で、人生は変わる
振り返ると、私の仕事は、人の一言で動いてきました。
課長の一言で、婚礼家具の仕事への興味をなくしました。大西社長の一言で、葬儀屋への扉が開きました。
そして何より、明るい生活が始まるはずだった若いご夫婦の死と、見送る人のいなかった故人さんとの出会いが、「生かされた命で、誰かの役に立ちたい」という思いを、私の中に残しました。
こうして、私の葬儀屋としての第一歩が始まりました。
皆さんは、今のお仕事を選んだきっかけを、覚えていますか。
※この記事に出てくる方のお名前は仮名です。場所や時期も、どなたの話か分からないように少しぼかしています。お話そのものは、私自身が経験してきたことの中から書いています。この記事は、AIの『Muse』にお手伝いしてもらいながら書きました。